« 14.<寺山修司と俳句>若者こそ俳句を! | トップページ | 16.<団塊世代へのエール②>団塊世代の奇妙な沈黙 »

15.<団塊世代へのエール①> 全共闘運動とは何だったのか?      

全共闘体験     長谷川 宏(哲学者).pdf

 人はだれでも、ふりかえって、かけがえのない体験といえるものが、いくつかあると思う。

 わたしの場合、文句なく指を屈することのできるのが、全共闘運動(東大闘争)の体験である。いまの塾稼業も大学を離れての哲学研究も、この体験なくしてはありえなかったから、未知の相手に自分の現在を語ろうとすると、話はきまって三十年前のバリケード闘争に及ぶ。

 ただし、いうところの全共闘世代にはわたしは属さない。闘争に参加したのが二十八歳、オーバードクターの身だったから、全共闘世代より五、六年は上に当たる。この差は大きい。闘争に深入りはしたものの、どこかにさめた意識があり、教官や学生の動きをも、自分の心の動きをも、やや客観的に見ることができていたように思う。

 一年余のストライキ闘争のなかには、集会、デモ行進、ピケット、大衆団交、立て看作り、ビラ撤き、街頭カンパ、等々、多種多様な行動がふくまれていたが、いま、なにより印象強く思いおこされるのは、会議における息づまるような討論のおもしろさである。

 会議の名は文学部闘争委員会。

 時に応じて開かれるこの会議では、彼我の勢力関係はどうか、なにが中心の問題か、なにをなすべきか、可能な行動形態はなにか、といった点をめぐって各自が自由に思うところを述べるのだったが、さまざまに対立する提案や見解の背後に、発言者の個性や思想性が浮かびあがるようになって、討論は、内奥の思いのぶつかりあう、ことばのドラマの観を呈するに至った。

 自分の責任においておのれの思いを真率に表現し、その一方、他人の発言に誠実に耳傾け、正確にその真意を理解しようとする姿勢が会議の参加者にあったからこそ、ことばのドラマはなりたったのだ。闘争の緊迫感がことばに張りをあたえ、ときにはげしく、ときに静かに、ことばのドラマは進行していった。

 が、ことばの緊張とは裏腹に、会議の場にいるわたしたちの心はしだいにやわらいでいった。共通のことばを必死の思いで求めつつ、ことばを重ねるたびに自他のちがいもまた明確に自覚され、そこに、ちがいをちがいとして認めようとする心の動きが生じる。そのようにちがいを認めることが、心のやわらぐことだったのだ。安易に他人に同調せず、意見の対立を個性や思想性のちがいとしてむしろ大切なことに思う心のかまえ。討論を重ねるなかで、わたしたちがたがいにたいしていだくに至った信頼感は、そのようにも表現できるものだった。

 それまでわたしは哲学徒としてさまざまな討論に参加してきたが、このように信頼感をはぐくむ討論に出会ったのは、目のさめる体験だった。それは、遠く、ことばへの信頼と人問への信頼に通じていた。

 バリケードなきあとも、会議というと、わたしはなにより対等な立場での意見のぷつかりあいを実現したいと願う。三十年後のいまも、そのように全共闘体験が自分のうちに生きていることをうれしく思う。

    日経新聞 99/2/19()夕刊「ブロムナード

« 14.<寺山修司と俳句>若者こそ俳句を! | トップページ | 16.<団塊世代へのエール②>団塊世代の奇妙な沈黙 »

無料ブログはココログ